土井理代「前期ハイデガーにおける形而上学の遂行」--Webで読むハイデガー論(005)

 

タイトル:前期ハイデガーにおける形而上学の遂行

筆者:土井理代

発表媒体:メタフュシカ

発表年度:2004年12月15日

URL:http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/9174/1/mp_35_075.pdf

お勧め度: ■■■■

寸評:「存在と時間」刊行後の前期ハイデガー形而上学の概念を追求し、この時期の思想的な課題をさぐろうとする。

 

  ■ハイデガーによる形而上学という用語の選択

はじめに

ハ イデガーにおける形而上学(Metaphysik)の概念は、 彼の思想全体を通して見れば二義的であるように見える。 確かに彼は西欧的思惟の歴史を形而上学という観点で一括し、 その歴史を存在忘却の極まりゆく一繋がりの展開として批判的に解釈しつつ、それを真に超える「別の思惟」の道を示すことを試みた[1]。

だ が、そのような否定的とも言える形而上学概念が彼の用語法の中で定まってきたのは、彼の思惟の歩み半ば、 1930年代(とりわけニーチェとの対決の途上)以降においてである。 そこで意味される形而上学は、 自然科学の隆盛期であったカントの時代にすでに疑義が表明されていたような伝統的学科としての形而上学とは違い、 われわれの時代にあってもいまだ誰もそこから抜け出せないような包括的な歴史的現象としてのそれであり、 その点で時代批判的、 現代的意義を持つている。

しかし彼が形而上学概念に独自の意味づけを与え直すことを試みたのは、 初めは必ずしもそのような文明批判的な色彩を帯びた否定的な文脈においてのことではなかった。 前期の主著である 『存在と時間』 (前半部)公刊(1927)後、 1920 年代末期のハイデガーにおいて思惟のキーワードとして前面に出された「形而上学」は、やはり伝統的な形而上学概念とは違い、 これから根源的に意味を与えられようとする積極的、 いや少なくとも中立的な概念だった。したがって1930年代以降に歩まれる中期から後期にかけてのハイデガーの思惟から照らせば、この1920年代末期の 形而上学概念は異質なものに見えるのである。

ハイデガーは、 存在忘却という根本経験すら忘却されていく西洋的思惟の支配圏を形而上学と呼び、 そこから外へ出ること (根源へ還ること) を求めた。 しかし一時期彼自身の思惟の表題として形而上学という語が選ばれた。 別の思惟ではなく形而上学という表題が。

以 下の叙述ではこの点に関し、後の形而上学批判はこの1920年代末期の形而上学概念の彫琢を経てこそ理解可能であるこ と、初期から彼の思惟の う ちに強く ある眼前性(Vorhandenheit) の存在論の伝統を解体するという考えが、 基礎的存在論および形而上学の遂行を経て後の形而上学批判へといわば名を変え具体化されていく、 という見通しを持つて、 絡まりの多い前期ハイデガーの思惟の道筋を解きほぐしながら、 そこに内在する問題を指摘することにしたい。

 [1 ]  1930年代以降の著作で散見される 「別の思惟 (das andere Denken)」 (WME:381)という言葉は、 内容的には、存在者としての存在者しか表象しない形而上学に対し存在 (原存在Seyn) を問う存在歴史的思惟を指す。

 

形而上学の概念の規定

 

1   現存在と形而上学の分かち難さ

『存 在と時間』(SZ)において人間を現存在(Dasein)と術語化し、 その現存在の分析論としての基礎的存在論を展開 したハイデガーは、 マールブルク大学での講義活動等を通して基礎的存在論を練り直しながら、論文「根拠の本質について」(WG)や著書『カントと形而上学の問題』(KPM) を公表した。 そしてその後再び移ったフライブルク大学での就任講演 「形而上学とは何か」(WM)[2]や講義『形而上学の根本諸概念』(GA29/30)ではいずれも「形而上学」という語がキーワードとして前面に出され ることになった。 この時期がハイデガーの思惟の発展において形而上学期と呼ばれることがあるのもそのためである[3]。 だが、 この時期においてもすでに形而上学概念は、『存在と時間』期における存在論の概念と同様、語としてあるいは形式的概念としては一つであっても、 その意味内実は二義的であった。 すなわち、 伝統的に受け継がれてきた表題としての形而上学と、 これから思惟の遂行によってその内実を与えられようとしている形而上学である。 根こぎにされた形而上学と、 根源へと向かおうとする形而上学。 この二義性とはどのようなものなのか。

1-1  全体への問いとしての形而上学

初期フライブルク時代から哲学の生き生きとし た理念を獲得することを目指してきたハイデガーにとって、 形而上学の概念を蘇らせることは、 単に伝統的な意味での形而上学を復活させることではなかった。彼の求める形而上学は、『存在と時間』で展開された基礎的存在論によって確保された「基礎 (Fundament)」(KPM:225)4に踏み留まりながら、「存在」の理解(投企Entwurf) を本質とする現存在の存在(実存Existenz)だけでなく、その現(世界)において情態的に開示されてくる 「全体において在るもの(das Seiende im Ganzen)」[5]の存在へと問い進めること、そしてその中で同時に自己の存在 (実存) を問い直すことを意味している。 それはすなわち、 この問う者自身と全体において在るものという二つの契機を統一的に保持しつつ、 存在への問いを模索し続けていくことである。

こ のような1929年の形而上学を特徴づける言葉をいくつか引いておこう。 「形而上学とは問うことであり、 その問いにおいてわれわれは全体において在るものの中へ問い入り、 その際問う者であるわれわれ自身も共に問いの中に立てられる」 (GA29/30:13)。 すなわちそれは 「全体へと出て行くと同時に実存を隈なく把捉する、 という二重の意味で全てを含む(inbegriflich)思惟」(GA29/30:13)であり、 「形而上学は現存在における根本生起である」(WM:122;GA29/30:12)。このような 「形而上学は、 人間といったものの事実的実存と共に生起する、 存在者の中への破り入り(Einbruch)における根本生起である」 (KPM:235)。

このように特徴づけられる形而上学とは、 すでに基礎的存在論で明らかにされた現存在の存在体制すなわち世界‐内‐存在(世界への超越)の動性を― それに固有の見えにくさと絶えず闘いながら― 自覚的に (問う態度で) 把捉しつつ、 そこで全体として漠然と経験されることを解明していくことに ほかならない。不安や退屈等の根本気分のうちで、事実として現存在が全体において在るものに (あるいはそのような全体の動性と共におのれを示す無に) 晒される瞬間があるとすれば、 そしてわれわれが個々の存在者に態度をとることができるためにはこのような全体の開示がそのつど共に働いているのだとすれば、 そこからさらに 「現存在はいかにして、 全体において在るものの中へそのように立てられることができるのか。 この 「全体において」 がわれわれを取り囲む時そこでは何が働いているのか」(GA29/30:251)ということ―世界への問い― が形而上学的に問い深められなければならないだろう。

[2]   引用の際は表題を示す略号を用いるが、頁番号はその収録先である『道標』のものである(「根拠の本質について」 も同様)。 なお、 略号WMEはこの講演の20年後に付された序論を示す。

[3 ]  以下ではこの時期を、 上記の著作が出版され、 就任講演が行われた1929年にしばしば代表させる。

[4]     「基礎的存在論(Fundamentalontologie)」は、その遂行性格(形式的暗示という遂行指示性格) から切り離された内実だけが学説として受け取られるべきものではない。ハイデガー自身その点についてさまざまな形で注意しているが、誤解を招きやすいのは 「基礎」および「存在論」という語だろう。学の基礎、あるいは根底[根拠]としての現存在は、『存在と時間』で既に明らかにされているように(根源的な意 味で)有限的、時間的でありそれ自身脱底的である。そのようなものとして自らの実存に耐えつつその現象を隠れから取り出す(むしろ隠れるものとして指し示 す) 歩みは、 たとえ学的体裁をとったとしても (実際とったのであるが) 「体系化」 とは異質である。 それは人間存在を分析しているからといって単に人間学でないことは言うまでもなく、 それ自身一存在論ですらない(cf.WME:380)。 ハイデガーの思惟がやがて単に思惟(Denken)としてしか自己表現しなくなるのは、事柄に即して当然のことと言うべきだろう。

[5]     「全体において在るもの[全体における存在者]」 とは 「ピュシス」概念の再解釈から取り出された意味契機である。 勿論これは諸学の対象領域としての 「歴史」 や 「自然」 のいずれかに該当するものではなく、 むしろ存在者の諸領域成立以前にそのつどわれわれに開示され、そこからそれらが可能となるような全体である。

 

■伝統的な形而上学概念の批判

 1-2 伝統的形而上学への疑義

し かしこの時期のハイデガーは 「形而上学」 という伝統的概念を決して肯定的に評価していたわけではない。 むしろそれが根源語ではないこと、 そして、 アリストテレスにおいてすでに問われるべき事柄として現れていたことへの真の理解のないまま、 文書編纂上の前後関係という外的な事情から生まれた語であること、 「メタ」 の意味が単に 「後で」(post)だけでなく 「超えて」(trans)の意味へ転化した際その「超えて」の意味(どこへ向けて超えるのか、その超えて在るものはどこに、 どのような仕方で在るのか、超えられるものとの関係はどうなっているのか等) が真に統一的に思惟されることのないまま中世のスコラ学において教義的に体系化されてしまったこと、 形而上学を乗り越えたはずの近世以来の認識論 (超越論哲学) もまた、 このような伝統において立ち塞がれ曖昧にされたままの存在理解の上に立つているということ[6 ]等が指摘されつつ、それでも敢えて(もはや「存在論」ではなく)「形而上学」という語が選ばれるに至ったわけだが、 この語の選択およびハイデガーによる新たな意味づけ (1929年段階での) には、彼独特の巧妙さがある。

ちょうど 「現存在(Dasein)」 という伝統的な語に、 存在(Sein) へと開かれている (Da=開示性)、 という独自の意味づけが与えられたように、 「形而上学」 という伝統的な語も、万物(ピュシス)を「超えて」在るという現存在に特有の超越の動性―そのつど世界[7]へ向けて (世界を形成・投企しつつ)、 私自身を、 そして全体において在るものをも共に超え行く在り方― を示すものとして解釈され直している。上にも簡単に見たように、このハイデガー形而上学概念にとっては、世界‐内‐存在(超越)という存在体制を持つ現 存在の概念がそうであるように、その統一的構造(体系の統一性ではなく実存の統一性)、まさにその全体性が本質的なのである。

[6]   近世的特徴と して、全体― 全体において在るものではなく在るものの総体と して眼前に見出される 「世界」ないし 「自然」― への問いと共に、 問う者自身が問題圏の中心となることが指摘されるが、 その際「自我や意識はまさに最も確実で疑問の余地のない基礎としてこの形而上学の根底に置かれる」 (GA29/30:84)点で、ハイデガー形而上学とは根本的に区別される。

[7]   現存在の存在体制に属する現象としての世界は、 初期以来ハイデガーにおいて多義的 (多重的) であるが、この時期においては、 それはしばしば現存在自身の目的(Umwillen)の全体性という意味で用いられる。 目的全体性とは現存在の存在可能(その最も極端なものは死ぬという可能性)の全体性のことである。現存在は、現存在として存在する限り、存在へと開かれた その独自の存在様式を引き受けなければならないが、 目的とは、そういう意味で現存在が現存在自身であるために(Umwillenseiner)、ということである(cf.WG:157f.)。 

 

形而上学の概念の二重性

そ れに対して伝統的な形而上学概念にはそのような統一性が欠けている。 この問題の直接の端緒はアリストテレスにおける第一哲学の二義性のうちに見出される。 アリストテレスは、後に『形而上学』 と題され編纂されることになる論考の中で彼が 「第一哲学」 と呼ぶ探究を性格づけ、それを「存在者としての存在者(オン・ヘー・オン)」への問いと「神的なもの(テイオーン)」 への問いという二重性のうちで示した (第6巻)。 そしてこの二つの契機は、 中世における「一般形而上学」(存在論)と「特殊形而上学」(宇宙論、心理学、神学)[8]の体系化へと発展した。

しかし元々同じ一つの事 柄を特徴づけたものだとしても、 存在者としての存在者―存在者を存在者たらしめるもの (存在者の存在) ― と神的なもの― 全体において在るもの― とは、 ただちに同一視されうるものではない。 確かに両者に共通しているのはそれが存在者を何らかの仕方で「超えて」いるということであり、だからこそ文書編纂時に導入された「メタ」が内容的な意味へ と転化した。だが、個々の存在者を「超えて」いる普遍的規定(或るもの、一性、多性、他者性等の諸範疇) としての存在(本質)は、超感覚的というよりはむしろ非感覚的な方向へ超え出ていると見なされるべきである。

なぜならそれは 「感覚を超えたところに独自の存在者として在るもの」 (GA29/30:68)すなわち中世キリスト教の神のように、 文字通り超感覚的なもの9の方へ「超えて」いるということと同じではないはずだからである。 にもかかわらず、 それらが混同されたまま体系化へ至った形而上学にとっては、 もはやそういった問題が問題として見えない、 とハイデガーは批判する。

で は、 このように問題をはらむ形而上学の二重性はハイデガーにおいてどのように調停されるのだろうか。 ハイデガーはその二重性を、 彼が基礎的存在論において分析した現存在の存在へと重ね合わせる。 すなわち、 存在 (存在者としての存在者) の学という方向と神的なもの (ハイデガーは天空、 包摂するもの、 卓越したもの等と訳す) の学という方向が、 実存と被投性(Geworfenheit)の二重性に対応する問いの方向として解釈される(GA26:13)ことで、 今や形而上学の概念はその統一の基盤を得る。 それによってハイデガーは、 体系の統一性ではない生きられる統一性10を形而上学に確保すると共に、 現存在における根本生起と見なされた形而上学は、全体への問いとして、 その遂行性格を色濃くするのである。

 

 

[8 ]  体系の統一性を持たないアリストテレスの『形而上学』が、中世(ハイデガーが重視するのはトマスよりもスアレスである) における体系づけ、 すなわち存在論としての 「一般形而上学」 と、 宇宙 (自然) ・魂 (精神)・神の各領域的存在を扱う 「特殊形而上学」 という区分へともたらされたという歴史的経緯は、 この時期のハイデガーの著作や講義録において頻繁に指摘される(GA24:112;GA26:13,33,223;GA27:245;KPM:2f. 等)。

[9]   ハイデガーはここに、形而上学の対象が、位階秩序の差はあれ眼前存在者の一領域(感覚を超えたところに在るもの)として外面化されているのを見る(GA29/30:63f.)。

 

 

■存在論的な差異

1-3 差異

こ うして伝統的な形而上学と袂を分かちながら、ハイデガー形而上学は、 人間という存在者を現存在 (現‐存在) という独自の存在様式を持つ存在者へと変貌させること(Verwandlung) を要求する。人間を現存在へと変貌させる、 とは、後にも見るように、現存在とは本質的に異なった存在様式を持つ存在者から読み取られたと考えられる 「眼前性(Vorhandenheit)」 の概念から自由になること、 われわれ自身をそのような 「存在」概念による平均化から解き放つこと、を意図していると言ってよいだろう。

平 均的な存在理解に基づいて、 人間自身が他の存在者と並んで世界に存在 (眼前存在) する一つの存在者のように見なされる一方でそれが理性や自己意識等の能力を持つているという点で他の存在者から際立たせられても、存在(存在そのもの)に 開かれて在る、 というわれわれ自身に固有の存在様式は捉えられない。 したがってまた、 存在そのものへの問いを遂行するための通路 (現存在) は立ち塞がれたままである。 むしろ、 現存在とはそれ自身世界を開きつつあるもの(世界‐内‐存在) として、そこにおいて存在者の存在があらわになる― 存在者と存在の差異が生起する― 特異な存在者である、 という事実が際立たせられなければならない。

この差異をハイデガーは1927年講義で 「存在論的差異(ontologische Dif erenz)」 と名指し、 その後も再三触れている[11]。 この 『存在と時間』 から形而上学期にかけての現存在を起点とする思惟の遂行の中で、 現存在の存在に関わる根源的現象としていくつかの問題が集中的に取り扱われているが、 それは例えば次のようなキーワードで彩られた問題圏である。 すなわち超越、世界‐内‐存在、存在論的差異、無、自由、有限性、時間性、根本気分、投企等。

ハイデガーにとってそれらはすべて同じ一つの (唯一の) 事柄をめぐっていわばさまざまな角度から照らし出され解釈し出された問題であると言えるが、 なかでも存在論的差異、 すなわち、 存在者と存在との差異― 存在者「として」の存在者へと態度をとることを可能にしているもの― は、存在への問いを模索的に遂行するハイデガーにとって中心的な概念であり続ける。 だが、 例えば1929/30年講義において、すでに「存在論的」という形容詞(「存在論」という概念)の使用自体が躊躇われていることからも窺えるように (GA29/30:521f.)、 われわれが1-2で見たような伝統的存在論においてはこの差異が見て取られることはなかった、 とハイデガーは一貫して主張する。 ここには形而上学というものは存在そのもの (存在者と存在のこの原初的な差異) を思惟したことがないとする後の形而上学批判に通じる見方がある。

 

[10]   「現存在の形而上学的解釈にとっては現存在の体系など存在しない」(GA29/30:432)。むしろその概念的連関は現存在自身の連関、その歴史の連関である点をハイデガーは強調する。

[11 ] この時期における萌芽的な言及としては例えばGA24:22,109,454;GA26:200;GA27:210,223等を参照。