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若見理江「カテゴリー的直観と時間性」--Webで読むハイデガー論(004)

 

タイトル:カテゴリー的直観と時間性 ---ハイデガーにおけるフッサール志向性受容

筆者:若見理江

発表媒体:ハイデガー・フォーラム 第九回大会、レジュメ

発表年度:2014年9月21日

URL:http://heideggerforum.main.jp/data14/wakami_r.pdf

お勧め度: ■■■

寸評:カテゴリー的直観の概念にしぼって、ハイデガーフッサール志向性ま概念をどう受容したかを問いかける。問題提起だけだが、考えるヒントになる。

 

ハイデガーの課題
ハ イデガーは、しばしばフッサールのカテゴリー的直観と自らの存在の問いとの関係について言及していた。しかし、とりわけフッサールのカテゴリー的直観につ いて詳細に取り上げている1925年夏学期講義『時間概念の歴史への序説』でも、カテゴリー的直観が具体的に『存在と時間』のどの部分に引き継がれている のかについて論及されておらず、ハイデガーの「存在」をめぐる問題との関係が不確かである。たしかに、フッサールもカテゴリー的直観に関連して「存在」を 語ってはいるが、それは繋辞「である」という意味での「存在」であり、またイデア的対象性としての「存在」である。つまり、『論理学研究』では「認識」が 主題とされているのに対し、『存在と時間』では「現存在の存在」が主題とされているのであって、フッサールのカテゴリー的直観が直接ハイデガーの存在の問 いに関係しているとは言い難い。
ハイデガーはギリシアに始まる西洋哲学の歴史を「存在忘却」によって特徴づけた。1925年の講義では、フッサー ルが「志向的なものの存在」を問わず、「存在の問い」を看過していることが指摘されている。だがその一方で、ハイデガーフッサール志向性を積極的に評 価しており、1923/24年冬学期講義『現象学的研究への入門』では、志向性の発見によって哲学史全体のなかではじめて徹底した存在論的研究のための道 が開かれたとも述べている。つまり、フッサール志向性の研究によって存在を問うことが可能になったのだが、フッサール自身は存在を問うことはなかったと いう、ハイデガーの両義的な見方がある。

たしかに、志向性の発見はハイデガーに存在を問うための決定的な視点を提供した。しかし、フッサー ルの立場では繋辞の存在やイデア的対象性が示されるにとどまるのであり、さらに志向性およびカテゴリー的直観がもとづいているものを明らかにすることが必 要であった。それがつまり「時間性」であり、ハイデガーフッサール志向性に関する研究を軸にギリシア哲学やキリスト教思想を解釈するなかで、志向性は 時間性にもとづいているという観点を獲得していったと推察される。
1925年の講義では、現象学における三つの決定的な発見として「志向性」と 「カテゴリー的直観」と「アプリオリの根源的な意味」が取り上げられ、これらの考察によって「時間」が現象的に見えてくると言われている。カテゴリー的直 観は「志向性の具体化」であり、志向性もその具体化であるカテゴリー的直観も最終的には「時間」に引き戻されることが示唆されている。したがって、フッ サールのカテゴリー的直観とハイデガーが存在の問いのために要請するカテゴリー的直観とのあいだに見られる相違は、「現存在の存在の意味」である「時間 性」という観点を取り入れることによって説明可能となるように思われる。

 

■本稿の課題
明確にすべきことは以下の四点である。

第一に、ハイデガーにおいて「直観」は「理解」の派生態であり、カテゴリー的「直観」を「理解」から捉えることによってどのような違いが出てくるのかということ。

第 二に、フッサールにおいて「カテゴリー的直観」は「感性的直観」と対になる働きであるが、ハイデガーの存在の問いにおいて「感性的直観」はどのような扱い になっているのかということ。またこれと関連して、フッサールでは「カテゴリー的直観」と区別される「普遍的直観」は、ハイデガーにおいてどのような位置 づけになっているかということ。

第三は「カテゴリー的代表象」に関する点であり、フッサールはカテゴリー的直観のうちに感性的直観と同様に 「代表象」を認めていたが、のちに『論理学研究』第二版の序言では、「カテゴリー的代表象」についての理論をもはや是認しないと述べるにいたった。これに 対して、ハイデガーフッサールのカテゴリー的直観を解説する際に「代表象」の問題について触れておらず、フッサールの以上のような「カテゴリー的代表 象」に対する考えの変化についても言及していない。ハイデガーにとっては、フッサールを煩わせた「カテゴリー的代表象」の扱いがそもそも問題にならなかっ たように見える。それはなぜなのかということ。

さらに第四として次の点が挙げられる。『論理学研究』において詳細に論じられていたカテゴ リー的直観は、その後の著作では主題化されなくなる。このことは、『論理学研究』以後のフッサール現象学ハイデガーの存在の問いとまったく関係がなく なるということを意味しているのかということ。

以上の点について考察することによって、ハイデガーフッサールのカテゴリー的直観とどこまで問いを共有し、どこから独自の解釈を施したのかということの境界が鮮明になり、ハイデガーフッサールに対する両義的な態度の含意がはっきりしてくるように思われる。