読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

西村慶人「初期ハイデガーにおける方法論の展開」(2)--Webで読むハイデガー論(004)

タイトル:初期ハイデガーにおける方法論の展開

筆者:西村 慶人

発表媒体:『哲学・哲学史論集』

発表年度:n.a.

URL:http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~k15696/home/phileth2/nishimura.pdf

お勧め度: ■■■■

寸評:ハイデガーの「形式的告示」の概念を追求する。

 

ハイデガーがナトルプに同意しているところ

2.ナトルプのフッサール現象学批判とハイデガーの応答

講 義において取り上げられているナトルプの批判とは、 概ね上述したヴァットの論点を踏襲したものであると考えられる。 ハイデガーは、 反省的記述という方法によって体験領域を探求し、 それを学的に開示可能にすることができるようになるかどうかに疑問を呈している。 というのも、 反省を欠いた形でなされる根源体験を反省によって 「眼差されたもの」にする場合には、われわれはその生き生きとした根源体験を、理論的に「脱生化(Entlebung)」 せざるをえないからである。 (56/57,S.100f .)

こう した問題を、 現象学における 「直観」 の問題であると捉えることができるだろう。 この点でハイデガーはヴァット、あるいはナトルプの側に与している。そしてハイデガーはナトルプの批判を「考慮に値する批判」 であると認め、 フッサールはそうした批判に対し何ら回答を与えていない、 と断じているのである。 (S101)しかしながらハイデガーは、 全面的にナトルプに同意しているわけではないし、 また、 例えばヴァットは 「現象学などというのもは、 可能であるか。可能であるなら、どのような意味においてか。」(Hua,S.171)と言うのだが、ハイデガー現象学そのものの存立可能性を否定してい るわけでもない。

 

ハイデガーがナトルプに同意しないところ

ハ イデガーがナトルプと同意しないのは次の点である。 ナトルプは、 体験の直接的な把握などそもそも不可能ではないか、 と主張する。 というのも、 体験の把握とはすなわち言語的な把握であるわけだが、 彼は記述とは 「あるものの普遍性の内への限定」 であり、 「包摂」 であると考えるからである。(56/57,S101)

これは、 現象学においては 「直観」 されたものを正当に記述にもたらすことができるのかどうかという問題、 すなわち「表現」 の問題で あると考えることができる。 そしてこの点に関して、 ナトルプに反対してハイデガーは次のように言う。 「現象学的に見ることがただちに記述と同一視されてしまう。 …たとえ記述することが必然的に理論化ということであるにしても、 そのことで、 それが理論的ではない性質をもつた基礎づける直覚であるという可能性が排除された、 というわけではない…。」 (S111)

あるいはハイ デガーは次のような形で、 「記述」に卓越した地位を与えてもいる。 「事象にふさわしいのは、 事実を挙示する 『記述』 のみである。 私は、 記述によって事象の領域を抜け出ていくことはない。 そしてもしこの領域が原領域であるとすれば、それには記述がもっとも密接な形で結びついている。記述は、 事象を変質させ、 変形させる契機が介入するのを決して許さない。」 (S61)

以上でナトルプとハイデガーの間の一致と対立を明確にすることができた。 フッサール現象学における 「直観」 の問題、すなわちそれにおいては反省的な態度を採ることによって生き生きとした体験が毀損されてしまうのではないか、根源体験がその根源性を保つたままに 見て取られることはないのではないか、 という点については、 両者の考えは一致している。

しかしながら、 「表現」 の可能性の問題において両者は対立する。 ハイデガーは、 体験を理論的に毀損することなく表現にもたらしうる言語が存立する可能性があることを主張するのであり、 それこそ彼の探求の主題となるものである。 こうした現象学にまつわる問題を、 キシールは 「『直観と表現』 の二重の方法論的な問題」 と名づけている。 (5)私はこの問題への取り組みこそがハイデガー解釈学の発展の駆動力であると考える。 ではそれは具体的にどのような展開を見せるのだろうか。

 ハイデガーの根源学の構想

3.「戦時緊急学期講義」における「前− 理論的な学としての根源学」

わ れわれはこれまで、 現象学における 「直観と表現」 の問題とはどのようなものかを見てきた。 しかしながらそれが提示された 「戦時緊急学期講義」 において、 ハイデガーはその問題の解決へと導くような表現様式を全面的に展開しているわけではない。 それは萌芽的な形で示されているに過ぎないのだが、 ここで瞥見しておくことにしよう。

この講義はハイデガーが自立した思想家としての歩み をはじめた出発点として位置づけられるが、それを貫いているのが、理論的な態度を退けるということと、環境世界体験を解明するということである。 そしてこれはこの講義のみならず一貫して初期ハイデガー思想の特徴であるとも言える。 この二点から、 彼にとって環境世界体験を理論的ではない仕方で記述する方法論の彫琢が課題となる、 ということが明らかになる。

ハイデガーはそうした学 を、この講義では「前− 理論的な学としての根源学」(S95)と規定している。それは「非理論的な学、つまり理論的なものそれ自体がそこから起源してくる真正な根源− 学(Ur-wissenschaft)」(S96)である。では、「根源− 学」はどのように構想されているのか。 上述のよ うに、 ハイデガーは生き生きと した体験を理論的に毀損するような反省的な態度を排斥するのであるが、 しかしおよそ学が学たるためには、 単に個別的偶然的な事例を際限なく書き連ねていくという方法も採ることはできない。

そこで体験を「脱生化」するのではないが、 にもかかわらず学の学問性を確保しうるような普遍化が求められることになる。 その手がかりをハイデガーは、 フッサールの 「類的普遍化(Generalisierung)」 と 「形式化(Formalisierung)」 に関する議論の内に見ている。(6)

例えばハイデガーは「講壇を見る」 という環境世界体験を一例として挙げ、 それに類的普遍化を施す。講壇は茶色である、茶色は色彩である、色彩は感覚与件である、と段階的に普遍化は進んでいき、最終的に単純な要素に至りつく。 これは 「あるもの一般(etwas überhaupt)」 と呼ばれる。 (S113)

しかし彼はこう した類的普遍化という方法を導入するわけではない。 というのも、その結果得られた「あるもの一般」は、「世界を欠いたもの、世界とは− 異質なもの(das Welt-fremde)」(S112)であり、すなわち類的普遍化によるならまさに環境世界体験は毀損されてしまうからである。 そこでハイデガーは、環境世界体験に形式化を施すことが可能であるこ とを主張する。

つまり、茶色から色に、 色から色彩にという段階を踏まずとも、 それぞれが一挙に 「あるもの一般」 へと形式化されうると言うのである。 そして次のように言う。 「あらゆる体験可能なものはその真正な世界性格を顧慮しないとすれば、 すべて可能なあるもの(mögliches etwas)  である。 あるものの意味とは、まさしく 『体験可能なもの一般(Erlebbaresüberhaupt)』である。」 (S115)

さらにハイデガーは、 このよ うに形式化によってもたらされる 「体験可能なもの一般」としての「あるもの」は、脱生化、理論化とは無縁であり、むしろ「生の最高の潜在性を表す指標」であるとする。(Ibid)

 

(6) しかしながら、 ハイデガーフッサールの 「純粋理論的」 な場面において考えられている議論を、 そのままの形で引き継いでいるわけではない。 フッサールが 「類的普遍化」と 「形式化」 を区別する理由の一つは、 両者においてはその適用対象が違うからであろう。 換言すれば、 彼はそれらに優劣をつけようとしているのではあるまい。 しかしハイデガーは、同一の「環境世界体験」に両者を適用しながら、その学的な記述様式としては形式化の方が優れているということを主張するのである。 ところで、 「類的普遍化」と「形式化」に関しては、ハイデガー全集60巻所収の講義「宗教現象学入門」第一章第四節においても詳しいので参照されたい。

 

■形式化の意味

 

こ こで、 これまで論じてきた 「戦時緊急学期講義」 における議論が、 初期ハイデガー哲学においてもつ意義を考えてみたい。 ハイデガーは環境世界体験を形式化していくのであるが、 これこそ 「生の躍動力(Lebensschwungkraft)」 (Ibid)を、 理論化して毀損してしまうことなく表現にもたらすような記述様式の開発への彼の第一歩である、 と記しづけることができるであろう。

ところ が、 この講義は、 実に中途半端なところで終わっていて、 そうした言語表現が具体的にどのようなものになるはずであったのかを知ることができない。 しかし次のようなキシールの解釈は参考になるだろう。 彼はハイデガーの形式化の議論をフッサール志向性概念と結び付けて解釈している。 (7)

(7)Cf.Kisiel,opcit.,p52-53.,  Kisiel, ‘Heidegger on becoming a Christian’ (in:Reading Heideg erfrom the start,ed.by Kisiel and J.v.Buren,New York,1994,p.175-192), p.179-180.

ただハイデガーは、 意識という狭い領域のなかでそれを考えているのではない。 いわば体験全体のノエシスノエマ構造、 志向的な動性の解明を目指していると言えるのである。 例えば夢中になってテレビを見ているという根源体験を考えよう。 これは学的対象化などとは無縁のものであろう。 それを 「私はテレビを見ている。」 と記述したところで、 浮かび上がってくるのはノエマ的な側面のみに過ぎないのではないだろうか。

そこで 「体験可能なもの一般」へと形式化する。これは記述からの「何」の契機、「内容」的な契機の剥奪である。それによって、これまで目立たずにいた、私が対象 とどのような「関係」を取り結んでいるのか、そして私はそのような「関係」をどのように「遂行」しているのか、という契機が浮彫りにされることになるので はないか。

後に論ずることになろうが、現象の関係意味、 遂行意味からの規定、 あるいは対象が 「何」 であるかの解明のみならず、それの「何− どのように− 存在(Was-Wie-Sein)」としての把捉は、ハイデガーの解釈学の発展のなかで大きな位置を占めるようになる事柄である。 そしてこれは、 体験におけるノエシス的契機の抽出と解釈することができるだろう。