西村慶人「初期ハイデガーにおける方法論の展開」(1)--Webで読むハイデガー論(003)

タイトル:初期ハイデガーにおける方法論の展開

筆者:西村慶人

発表媒体:『哲学・哲学史論集』

発表年度:n.a.

URL:http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~k15696/home/phileth2/nishimura.pdf

お勧め度: ■■■■

寸評:ハイデガーの「形式的告示」の概念を追求する。面白いので、ゆっくりと読んでみよう。

 

 問題意識。この論文の意図が語られる。

初 期フライブルク期から 『存在と時間』 に至る時期のハイデガーの解釈学は、 「形式的告示的解釈学」と呼ばれることがある。だが「形式的告示」に関しては、初期講義群においても『存在と時間』においても、体系的な論述は少なく、そ の本質を把握することは容易ではない。本稿においては、一九一九年の「戦時緊急学期講義」以来のハイデガーの方法論に関する考察を後追いしつつ、 そもそも 「形式的告示」 なる方法概念がどのような問題意識の下で構想されたものであり、 それがどのような特徴をもつものであるのかを明らかにしていきたい。

こうした目的を達するために、本稿は次のような道行きを辿る。初期フラ イブルク期におけるハイデガーのある講義には、 「直観と表現の現象学」 という表題が付けられている。 私には、 「直観と表現」 の問題への対応が、 初期ハイデガーの方法論の展開の出発点であると思われる。

では 「直観と表現」 の問題とは何か。 直観の概念こそ現象学に無媒介の明証性を与えるものである。 しかしながらそうした直観とは 「方法的にさしあたり言語の彼岸において遂行される」 ものであるわけで、(1)ここにそもそもそうした直観は可能か、 またそれを毀損することなく表現へともたらすことができるか、 という問いが生じる。

当初ハイデガーはこうしたフッサール的な問題設定の枠組に則りながら、その解決を模索していたと考えられる。 そして 「知の取得」 と名づけられるわれわれの行為を取り上げることでその問題に答えようとするのだが、それは失敗に終わる。

実はこの失敗こそ、 ハイデガーフッサール的な枠組の限界そのものを自覚させることとなる。 そこから、 観察する者とされる者の間の距離を抹消するロゴスの構築の必要性が明らかになるのであるが、 それを可能にするものこそ 「形式的告示」 なのである。 (2)そして最後に、 これが『存在と時間』 をも貫く方法概念であると考えうる根拠について触れたいと思う。

  フッサールの原的な体験のもつ問題

Ⅰ   ナトルプの現象学批判と 「戦時緊急学期講義」 におけるハイデガーの応答1.『イデーンⅠ』における問題の提示

 そ もそもハイデガーが「直観と表現」の問題に取り組むようになった契機となったもの、 それは、 ナトルプのフッサール現象学に対する批判とそれに対するハイデガーの応答であった。 しかしながらそうした現象学の方法論における問題は、 ナトルプがはじめて指摘したというものではなく、 ヴァットとリップスの間ですでに論争が戦わされたものであり、 またフッサール自身が『イデーンⅠ』のなかで論じているものである。 ゆえにまずそれを確認することにしたい。 (3)

そのために、次のよ うな簡単な事例を考えてみよう。例えば、私が夢中になってテレビの画面を見ているとする。 これはフッサールの表現を用いれば、 「ある根源体験」、 あるいは「絶対的に原的な体験」と言うことができる。(Hua,S.167)

その際に私は、「私はテレビを見ている」というこの「根源体験」の遂行を意識 しているわけではない。そこで、「徹頭徹尾、反省の諸作用のなかで」(S.162)行われるとされる現象学は、この「根源体験」 を反省することによって、 それを研究の俎上に載せるのである。 すなわち、 「反省的に経験する作用によってのみ、 われわれは体験流について何ごとかを知る」 のである。 (S.168)

ところで、 こう した反省はそれ自体がさらなる反省の対象となることができるのであり、 また反省の対象となった反省もまた反省の対象となることができるのであって、 かくして体験を意識されたものとなす変様は、 「果テシナク(in infinitum)繰り返されうる」のである。(S.167)

 

ヴァットの異論--反省による根源体験の毀損

ここで フッサールは、ヴァットがリップスに対して投げかけた異論を 「私に対しても向けられていると見なしてよい」 (S.169-170)と考え、 それに反論している。ヴァットの異論とは、次のようなものである。「実際、われわれが無媒介な体験の認識にどのように至るか、 ということについてなどひとはほとんど推測をすることはできないだろう。 というのも無媒介な体験というのは知でもなければ知の対象であるわけでもなく、 ある別なものだからである。 どのように体験の体験に関する報告が、 たとえそれが現にあるとしても、紙上にもたらされるかなど、 洞察されることはできない。」(S.170)

ヴァットの批判の論旨は、具体化すると次のようなものとなろう。 「私はテレビを見ている」 といった体験が存するということは自明であるとしても、 私がそのような体験を知る、などということは可能であろうか。あるいは可能であるにしても、そうした知がまさしく私の 「テレビを見ている」 という根源体験を正確に射当てているものであると、 どのようにして確認することができるのだろうか。

というのも、 まさに私が夢中になってテレビを見ているときには、 私は知的な体験作用を遂行しているのでもなければ、 その体験を対象化しているのでもない。 それにもかかわらず、 現象学的な方法によるなら、根源体験は知的に、あるいは学的に反省によって対象化されない限り、対象とはなり えないからである。

す なわち、 「現象学者の眼差しが体験に向けられてはじめて、 それが今彼に提示されているところのものとなるのであり、 彼の眼差しが振り向けられると、 それはある別な体験になる」 (S.172)といった形で、 反省を媒介にすることによって根源体験は毀損されざるをえないのであり、 反省によって見られるようになる体験はもはや根源体験そのものではない、 ということである。

 フッサールの反論

こうした異論に対してフッサールはどのように 応答しているであろうか。 まず第一に彼は、 「本質学」 たる現象学においては、根源体験を毀損することなくその対象となすような体験が現実存在するか否かは、 幾何学において黒板に描かれた図形が現実存在するか否かなど問題にならないのと同じように、 問題にはならない、 と言う。 (S.171-172)

フッサールは批判にも関わらず反省の権能に対して疑いを抱く ことは決してないのだが、その論拠を次のように提示する。「『私は反省の認識意義を疑う』と言うような者はそれだけで、 ある反意味を主張している。 というのも彼の懐疑について言明しつつ、彼は反省しているのであり、 またこう した言明を妥当なものと提唱するときには、 反省が疑われている認識価値を現実に疑いなく (すなわち、 現在の事例に対して) もつているということ、 したがって反省は対象的な関係を別なものにするのではないということ非反省的な体験は反省の内への移行においてその本質を失いはしないということ、 を前提しているからである。」(S.174)

 換言すれば、もし反省の権能を疑い、反省は反省を加えられていない根源体験を 毀損するものであると主張するとしても、そうした主張は反省の権能を前提しているのであり、そうでなければそもそも 「反省を加えられていない」という事柄が何を意味するかなど確定できない、 ということである。

 しかしながら、 このようなフッサールの回答は説得力のあるものと言えるだろうか。 例えば、 フッサールの言うようにわれわれはあらゆる作用に関する言表を反省なしにはなすことができないというのが正しいにしても、 それによって根源体験は反省によって毀損されることはないという結論がもたらされると主張することができるのだろうか、 といった論難は考えられよう。 このように、 これまで論じてきた問題は現象学の根幹に関わる極めて重大なものであるが、 (4)ここでハイデガーがそれをどう扱ったかを、 一九一九年戦時緊急学期講義 「哲学のイデーと世界観の問題」 に即して見て行くことにしよう。