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淺野 章「若きハイデガーの業績」--Webで読むハイデガー論(001)

タイトル:若きハイデガーの業績
筆者:淺野 章
発表媒体:日本大学大学院総合社会情報研究科紀要  No9,391-401
発表年度:2008年

URL:http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf09/9-391-401-Asano.pdf

寸評:ハイデガーの学生時代から教授資格を取得するまでを簡潔に紹介。茅野良男『初期ハイデガーの哲学形成』(東京大学出版会)はさらに詳しいが、Webで読めるのは便利。
お薦め度:■■

 内容は、ハイデガーの初期の思想形成を簡単にまとめる。『心理学主義の判断論』につても、『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』についても、ごく短い紹介にとどまる。筆者のこだわりは、ハイデガーにおける神学と哲学の関係にあるらしい。引用してみよう。

   中世哲学に対するハイデガーの関心の深さに注目するのは、単に教授資格論文の冒頭に記されている中世哲学研究の現状あるいは中世哲学への誘いといった表面的な事態についてではない。問題はハイデガー自身の存在の根底に関わる重大性を帯びたものである。
 言ってみれば、哲学者ハイデガー誕生の秘奥である。

  神学から哲学への転換。さらに、神学と哲学、あるいは、宗教と哲学との峻別。およそ、これらの問題について、思想史の上からもっとも深刻に問われたのは、 中世においてその嚆矢とする点において異論があるとは思えない。もとより、思想上の枢軸が神中心から人間中心に転換することによって、必ずしも中世に限定 しえない性格のものとして、近代以降においても、神学と哲学、あるいは宗教と哲学をめぐる深刻な問題は問われているといわれるであろう。


  同じ深刻さについてみても、中世のそれは桁外れに重大な意味を持つていた。少なくも一身を賭するほどのものであった。それほどに教権の力は強大であった。 これに対抗した政権によって哲学は庇護された、その端的な例をオッカムに見出すこともできる。しかし、中世きっての神学者であり哲学者であったトマスにし てもスコトゥスにしても、異端の宣告を受け、あるいは政権による追放に処されてもいる。


 思想の自由が如何に貴重なものであるか、 まさに先人の血によって贖われてきた人類の遺産の上に築かれたものである。この意味において、自由の観念は著しく近代を特色付けているといわねばならな い。然るに、スコトゥスの思想の内にはすでに自由の考察がなされている。既に見たところでもある。


 自由のみではなく、ドゥン・ス コトゥスの考えには、近代のみではなく現代においてもなお関心を呼ぶ発想が見られる。まさに、この点においてこそ、ハイデガーが、教授資格論文として、こ れに向かおうとした姿勢のそもそもの動機の発端というより、その根底をなしているものがあるのではないかという見解を持たしめるものがある。

 


 ただしこの指摘にはあまり同意できない。ハイデガーの問題意識はもっと別のところにあるように思える。ハイデガーにとってこの時期に神学が重要な意味をもっていたのはたしかであるが。

神 学から哲学への転換。これなくして哲学者ハイデガーはない。ハイデガーの両親に青天の霹靂を見舞ったフライブルク大学神学部から哲学部への移籍。後年、キ リスト教とギリシャ哲学とのかかわりについて言及する際に決まって引用する、パウロの言葉。「この世の知恵を愚かなるものとした」知と信の峻別。神を臨み つつ哲学者として全うしたその生涯。ここには、中世的背景によって理解を容易ならしめるものがあるとともに、著しく現代的な一面の認められるところでもあ る。


 あえて言えば、中世の思想の辿った道、あるいは、中世哲学形成の歴史、この途上における重要な分岐点、それはまた、中世哲学 の頂点に達したと看做される一大特色を呈しているのが、ほかならぬ、ドゥンス・スコトゥスであり、そこにハイデガーの関心の先駆性を定着してみることも可 能であるように思われる。